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 「北上山地の製鉄」 岡田廣吉 
   『みちのくの鉄』 アグネ 1994



五、餅鉄について
 昭和三十年夏、釜石市橋野町沢檜川上流の大平小屋で地元の方から円礫状の磁鉄鉱を提示されたのが、餅鉄と筆者の出会いであった。その時は簡単に磁鉄鉱の円礫と片付けたが、紹介の価値を認めて昭和四二年秋に再び同地を訪れ、沢檜川と橋野川の合流点付近の畑で餅鉄を採集してその鉱物学的性質を検討し、餅鉄に「べえてつ」と振り仮名を付けて報告した。もちろん、ここでは餅鉄を円礫状磁鉄鉱(以下では磁鉄鉱礫と略記する)の地方名と認識していたのであって、その後の調査で釜石市洞泉では「ばふん鉄」、岩手県気仙郡住田町下有住では「おも石」と呼んでいることを知った。『大島高任行実』に収録された餅鉄関係史料には磁鉄鉱礫の外に、この餅鉄を原料に在来製鉄法で製鉄した餅鉄と、高炉で生産した餅鉄が存在し、後二者の餅鉄を用途で見ると刃物類なら鋼、農具や小銃なら延鉄、大砲なら銑鉄を推定できるので、自身もなく、一括して「鉄の餅鉄」と仮称したことがある。森嘉兵衛先生は岩鉄(磁鉄鉱)原料の高炉銑を「もち鉄」と規定し、四振の餅鉄在銘刀を紹介した(森嘉兵衛先生は昭和四八年十一月一日、釜石製鉄所で開催のタタラ研究会における特別講演で「最近、もち鉄をべえ鉄といっている方がいるようですが、どうもべえ鉄の方が本当らしい」と延べ、自ら餅鉄の読み方をべえ鉄に訂正された)。そうすると、餅鉄在銘の刀剣とは高炉銑で刀の鋳物を作り、脱炭と鍛錬を行なった製品だろうか。これは考えられない。当時は高炉銑を原料に延鉄も製造しているから、銑卸しの方法で鋼も製造したのだろうか。確証もなく一抹の不安を抱きながらも、餅鉄在銘刀の素材を高炉銑の銑卸しによる鋼であろうと報告したこともある。

 現地を歩くと、釜石砂小渡と遠野市佐比内高炉跡には昭和三十年代まで普通の鉄鉱石とは別に餅鉄が山積みされていたというし、気仙郡住田町栗木高炉では大正年代に入っても江刺市古歌葉の餅鉄を原料鉱石に使用したという情報が得られた。餅鉄を産出する釜石市栗林町には、餅鉄を貫目単位で買い上げた安政六年(1859)付の『餅鉄通』があり(故三浦加禄氏提供)、文久山高炉でも古歌葉の餅鉄を桝目単位で買っていた。つまり、釜石鉄鉱山地域と古歌葉の餅鉄は高炉の原料鉄鉱石に使用されたほど多量に産出したところに大きな特徴を見出すのであって、かつ鉱石名にも餅鉄の呼称を適用していたのである。

 磁鉄鉱礫の餅鉄を原料鉄鉱石に在来製鉄法で製造した餅鉄は、磁鉄鉱礫の餅鉄を産出する栗林村の特産品とも見られる。江戸時代も末の南部領大槌通栗林村(釜石市栗林町)には十軒の鍛冶屋が居住し、銑鉄を原料に延鉄を素材に針金を製造していた、針金の特産地であった。延鉄の製造方法は大鍛冶の方法と見て大過ないから、同じ火床で磁鉄鉱礫の餅鉄を還元し、鋼を製造したように思われる(直接製鋼法)。この鋼も餅鉄であるが、鍛冶屋の火床程度の規模で製造し、しかも名人芸的な操作が要求される方法であろうから、需要に応じながらも恐らく少量生産の域に止まっていたのであろう。釜石市の有形文化財に「奥州南部栗林住神清照」の銘をもつ小刀(澤田正治氏所蔵)と、梵字と「奥州南部栗林住神清照作」の銘をもつ素槍(川崎延治氏所蔵)が指定されている。両者には年紀を欠くが、「神清照」は栗林村の鍛冶屋「神之前」(屋号)のある人物の刀工名、素材の鋼が餅鉄であろうと推定されている。これにも確証がないが、栗林村をめぐる社会的ならびに技術的な環境条件と「往昔製鉄事業ノ幼稚ナルノ際ニ鍛冶職之ヲ刀剣類ニ供用シタリト云フ」の記述を合わせ、説得力を持つ穏当な考察と評価できる。

 現在のところ二十余振の餅鉄在銘刀が見られるが、銘文を収録すると、年紀は安政六年八月から明治二年の間に集中し、そのうえ地名が橋野山と大橋山に限られ、栗林がない。仮に餅鉄在銘刀の素材が磁鉄鉱礫の餅鉄から直接製造した鋼とすれば、栗林の地名を欠く事実を無視しても、年紀が更に遡ってもよく、高炉銑の銑卸しを考えれば大橋高炉が操業を始めた安政四年十二月を餅鉄在銘刀の年紀の上限に設定できる。

 確かに大橋高炉は安政四年十二月一日に出銑したが、その後操業がなく、炉体や送風機、操業法を改善し、操業に成功したのが安政六年三月九日、ついで一期三十日操業、銑鉄生産一日五百貫目の操業技術を完成したのであった。詳細な説明は省略するが、前述のように高炉も操業が末期になると、炉床にタタラ製鉄の[金品](ヒ)と同質であろうと考えられる固まりが生成したらしい。この固まりを破砕し、良質の鋼を選別したのが高炉で生産した餅鉄であろうと見るのが筆者の理解であり、かつ当時の高炉関係者が炉床の固まりを[金品]と認識し、これを破砕して鋼を回収したところに経験の蓄積を垣間みるのである。

 それでは餅鉄在銘刀の年紀が安政六年八月を上限とし、地名がなぜ橋野山なのだろうか。安政八年の橋野山なら間違いなく南部藩直営の橋野高炉を指している。安政五年暮の橋野仮高炉は惨憺たる操業成績に終わっているが、大橋仮高炉の新技術を直ちに受容するに及んで安政六年夏頃には炉床の固まりが発生し、これを破砕して鋼を生産したように思われる。餅鉄在銘刀の年紀が安政六年八月を上限におき、地名が橋野山の背景である。南部藩はこの鋼に栗林村の呼称を借用して「餅鉄」という商品名を付け、特産品として宣伝と販売に活用したのであろう。刀銘にある巌鉄も餅鉄と同義とみて差し支えない。同時に餅鉄および巌鉄在銘刀の年紀は、大橋高炉が操業に成功した安政六年春まで遡る可能性を秘めているのであって、下限も前に掲げた明治二五年の橋野高炉の史料もあるので、明治二年から更に延長するかもしれない。餅鉄銘の鍔もある。

 現地を歩いてみよう。そうすると大島信蔵氏が昭和七、八年頃、大橋高炉跡でみた「大岩石の如き鉄鎔塊」と同様な炉床の固まり、溜り、氷った鉄などの話を各地の高炉跡で聞くのであるが、これらは戦中、戦後に鉄鉱石や鉄屑の代用品として回収され、僅かに砂子吉太郎氏所蔵の砂子渡高炉跡の二個と、佐比内高炉跡の発掘調査で発見された数個を確認できたに過ぎなかった。観察できた炉床の固まりは直径が二尺(60cm)前後である。

 近世の北上山地における製鉄場を地質図に重ね合わせると、渓友一(上村癸巳男)が「砂地も地質図から推すと盛岡藩領内のものが「ドバ」を主としたのに対して、「マサ」が大部分を占め」と述べているように、北部の八戸領が段丘砂鉄、中部の盛岡領が花崗岩の現地残留砂鉄を製鉄原料とし、鋼の生産史料は主に真砂砂鉄と同質の砂鉄を使用した盛岡領にみられる。南部の仙台領でも伝承や史料にあるように、近世に入ると仙台湾、その他の浜砂鉄から北上山地の花崗岩の現地残留砂鉄の使用へと転換し、製鉄場の主体も花崗岩地域か隣接地帯に分布している。

 すでに石原舜三氏の研究報告で明らかなように、北上山地の花崗岩体は大方が真砂砂鉄を産出する磁鉄鉱系花崗岩であって、その化学組成の一端が七滝産砂鉄と明神平の鉄滓に示されており、仙台領の花崗岩中の砂鉄も同様であって、そのうえ北上山地にもヒ押法とみられる製鉄法も存在していた。そうすると、北上山地における鋼の生産は原料砂鉄や製鉄法によらないということになる。鋼は銑鉄の脱炭(銑卸し)でも製造が可能であるから、ここにヒ押法で直接生産する鋼の品質と、このような鋼を要求した需要に目を向けた考察が必要が生じてくる。

 舞草刀の原料鉄鉱石と餅鉄在銘刀については、結論が得られたという訳ではない。舞草刀についてはいまのところ岩手県立博物館の高橋信雄氏と赤沼英男氏が蕨手刀に適用して成功を収めた微量部の分析手段であるX線マイクロアナライザー(EPMA)による研究方法を応用することにより、原料鉄鉱石、製鉄法、鍛錬法等の解明に何等かの手掛かりが得られるかも知れない。国立歴史民俗博物館の田口勇教授によると、現在では刀剣も原型のまま非破壊的に分析できるという。餅鉄在銘刀についての筆者の考え方は、まだまだ作業仮説の段階であって、実証には炉床の固まりの研究が不可欠である。

 

 


 


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